寒波に見舞われているヨーロッパだが、これも今週まで。
来週からは一気に最高気温が「+プラス」になる。
春が待ち遠しい毎日なのであるが、そういえば、、、、と
なぜ学校では学期に分かれているのか?とふと疑問に沸いた。
日本では2000年代に3学期制から2学期制になり、今はまた3学期制に戻すところが多い。というか、なぜ休みがあるのであろう??
「夏が暑すぎるから学校を休みにしている。」という、以前の発想はもう通用しない。私が子供のころは親からそんな説明を聞いた。
しかし現代ではむしろ夏の暑い時期に学校の冷房にあたっている方が、安心なくらいだ。食中毒についても、学校の方が一応安心である。また2学期制から3学期制に戻すのに、テストの数が減ってしまって、子供が遊ぶからというのがあるようだが、これはナンセンスだ。
正直、テストは適宜すればいいのである。
たとえばMonthlyテストのようにして、定期的に新しく習ったことを対象に行う。
とはいえ、私も中高時代に、3学期制で、
宿題考査 → 中間考査 → 期末考査 × 3学期
= 年間 9回テスト
正直、
何とかしてくれ~~~って思ってました。
おちおち部活の時間をとることもできません。
でも今になって思うんです。
人生ずっと勉強なら、ゆっくりでもちょっとずつ進んだ方が楽なのでは?と
学生時代は、試験前日の徹夜などかなり体に悪いことまでしました。
親も徹夜してでも勉強すると、喜んでいた(!)ものです。
ところが、どんな仕事でも自分の範囲をいつまでも小さくまとめて繰り返しているだけでは、成長がありませんし、気が付くと後進に飲まれてしまいます。
そうずっと新たなことを身に着け続けないといけないのです。
私はこれを体で理解するのに約40年かかりました。
ならば、どのように知識と経験が積もっていくのかのプロセスを知る必要があります。
以下はただの例え話なので読み飛ばしてください。
例えば、将来は芸術で生計を立てるとしましょう。
そのための学校がよいです。年単位での時間を割いて、勉強にしているのです。
もちろん常に授業もありますが、それらをまとめた課題が渡されます。すなわち実践があるのです。そしてその成果が評価される。そして次のレベルに進む。レベルというのは私のような芸術を理解しない人間が言葉にしては間違いかもしれません。より深い理解と考察と表現を得ていく。。。という感じなのでしょうか?
つまりある一定量のインプットがあるたびに必ずアウトプットがあって、身に刷り込む。足りなければ復習する。このプロセスを繰り返す中で考え抜いて、表面から見えない何らかの真理的なものを自身が理解した時が、次に進むときとなります。
人間にはお腹いっぱいになる時があるように、ある程度たまったら消化しないと次に進めないのです。
そういう意味ではなぜ3学期制なのか?
アメリカでは夏休みとクリスマスホリデーなど合わせて、1年のうち4か月が休みのようです。
夏は6月から9月初めまで休み・・・・・*1
とはいえ、大学に入ってからが地獄なようです。
毎日夜まで課題を続ける。夜のカップ麺と共に生きる・・・そういうもんらしいです。
日本では逆に大学に入ってからパラダイスですよね。
そういう私も大学からようやく楽しくなりました。というか遊びました。
授業もあんまりでず、部活ばかりやっていました。
日本は大学を終えてからが地獄の再開。
なので学期はなくても、定期的な小さな休みと、小テストを繰り返してほしかったと今になって思います。
ところで、なぜこう思ったかですが。。。
自分はこれで丸2カ月間、ウィーンにおります。
一般の留学と異なるところは、免許がないから実践ができないのです。
つまり、2カ月間で結構多くの物事を見ました。もちろんまだまだ多くの未見のものがありますが、表面上見えることの奥にあると考えています。なのでそれらを得るためには、どうすればいいのか考えていました。
釣りに例えますと、今はサビキ釣りなんです。
入れ食い(もちろん日本でないので、すべて今しか手に入らない獲物です)なのですが、もう少し大物や違う釣り物も見ないと、真に釣りに来たことになりません。
したがって、サビキで釣れすぎてクーラーがいっぱいなのですが、料理する時間と機会が(実践)ないため、食材がたまる一方なのです。本来はここらで一度まとめて下ごしらえして、一部は人にあげたり、冷凍したりしないといけません。魚なら。
あと一カ月、このまま材料をとりあえず増やすのか、別の仕掛にして別の獲物を狙うのかなど、この留学に合わせた目的を再確認しないといけないと思いました。
なので自身の中での確認作業・プロセスを必要としてことに気がつき、テストがもっと気軽にできるようにした方がいいと思った次第です。
*1:+_+